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オギャ〜〜〜〜〜

新生活 買い物 精神

新生活で買って良かったものと買い物をする上での精神について書きました。

 

 ダイソー 髪の毛 くるっとキャッチ

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髪の毛 くるっとキャッチ

これは風呂場の排水口に嵌めて使うものです。風呂場の排水口は髪の毛や垢やゴミが積層して家の中でもワーストに汚くなる部分で掃除もしたくない場所ですが、この くるっとキャッチ を排水口に嵌めてしまえば、毎回入浴の際水の流れで髪の毛がくぼみに溜まってくれてそれをティッシュ等で掴んで捨てれば終わり。前の家では限界を迎えてからパイプフィニッシュとかしてましたけど、これは毎回捨てるだけで大丈夫そう。商品名は違うらしいですが、セリアにもあるそうです。

②クッションフロア 10m

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施工中の様子

賃貸で床と家具の間に傷がつかないようにいろいろ挟んだりするものが売られていますが全部ダサいな〜〜、とおもっていっそ敷いてしまえば全部床保護できるしいいじゃんと思ってそのようにしました。 モルタル風です。8000円くらいで済みました。(真ん中のつなぎ目は仕方ないものとして受け入れている)床の色味はだいぶ部屋の雰囲気を変えてくれるし、自分の好きな風合いにできるのでめっちゃいいじゃんと思っています。
 似た商品にフロアタイルがありますが、前の家で敷いていたのものが底冷えがすごかったのでやめました。無垢材のものとかだとまた違うと思いますが、わたしが好きなテクスチャーのものは基本的に人工のもので、硬くて腰も痛くなるので今回は腰に優しく財布にもやさしいクッションフロアにしました。

 

③「これがないと不便かもしれないから一応買っておくか」ではなくきちんと選んで買う道具

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あたらしく買ったのはカーキの魔法瓶としろいティーポット

 新生活において対決しなければならないのは「これがないと不便かもしれないから一応買っておくか」みたいな気持ちなのかもしれない、と思いました。わたしはまだおたまと今日やっと買った木べらしか料理の道具を持っていないですが、今の所なんとかなっています。菜箸は普通の箸で代用してます。なんで「これがないと不便かもしれないから一応買っておくか」が危険かというと、捨てられないからです。

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サクラの木の木べら

ものを捨てるというのは、人間にとってあまり得意ではない行為というか、負荷のかかる行為なのだと思います。こんまりのNetflixをわたしは全部観ているんですけど、あそこに出てくるひとたちが共通で苦しむのは、ものを捨てる/捨てても良い という気持ちを持つまでの過程です。ものを捨てるかどうかを判断するときに、買ったときの思い出や、今現在そんなに使っていなくてもお金を費やしたという事実が、物質と対峙するときに噴き出してきます。多くの人間はそこに耐えられなくて捨てられません。わたしも捨てるのが不得意です。実際に捨てる、という行為自体面倒くさいもので現代はゴミ回収日というものが決まっていて、自分が捨てたいと思ったそのパッションのあるタイミングでは捨てられません。また、捨てたいと思うものが鎮座している部屋で生活するのもテンションが下がるものです。

 なので今回は買う前にめちゃめちゃ厳選しています。上の写真の魔法瓶は買うまでに3回見に行きましたし、ティーポットは5回見ました。木べらは3回握りしめました。ゆっくりでいいので気に入ったもの財布と相談しながら集めるという方針でやっています。これが実に精神に良く、魔法瓶がかわいすぎるので部屋でひとり「ほんとうに素敵ですね、、」と惚れ惚れしたりティーポットに「かわいいですね、」と話しかけています。これらの道具はあるだけでうつくしいので、生活自体が適当になっていくのを防いでくれます。

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影がかわいい

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 たぶんわたしは「部屋の実家化」を恐れているのだと思う。わたしの両親はインテリアにも空間にも興味がないひとだった。テイストや素材感が合ってなくても親は気に入っているからという理由で使い続ける。ちぐはぐでも運用される風景は自分にとってわりとグロテスクなものとして写っていた。でも基本的にはそうやって暮らしているひとのほうが多いのかもしれない。今回わたしがここまでやれているのだって、引っ越しの搬入日をずらしてまでクッションフロアを敷いたことが大きい。自分の好きなテイストの空間にはじめに設定したからこそ、細部まで良くしていく精神が動いている。こんまりのいうところのときめくものしかない部屋にしようとしている。(その反動として押入れはカオスになっている)

2020/2/18

 インターネットの宅内工事の予定だったが建物の構造上配線が上手くいかないといわれてしまい工事不可となった。NURO光を使うんだと息巻いていたので、どうしようという気持ち。大家さんはフレッツ光を引いているらしいのでまあぼちぼち調べながら解決したい。これはスマホテザリングで更新した。

 転入届を出しに区役所へ。区役所の建築変だった。調べたら村野藤吾という建築家の設計だった。カルディで塩をみる。298円。ディーン&デルーカで塩をみる。1200円。ミルの形状も中に入っている塩もほぼ同じ。違うのはラベル。おしゃれというかスマートな感じなると総じて物価が上がりますね。日用品でもものすごい量で流通しているものは視認性のほうが優先されているかも。本みりんのラベルとかめんつゆのラベルとかダサすぎてびっくりするのだが、これを急に全て変えたら視認できなくなって探せなくなり困る人もいるんだろうな。

 友人と合流して、パラサイトを見る。映画館、卒業してから行くたびに一般料金が高くてびっくりしてしまう。今回もびっくりした。パラサイトかなり面白く観た。終わった後、自分の中でどうにもならなさすぎて、うわーって音をしばらく何回も出した。友人とデカいケーキを食べながら感想を話してたら、最後の急さはあそこでジャンゴの音楽が流れても違和感無かった、といっていたのが面白くて思い返している。(もちろん話の方向性はちがうけれど)

 解散して生活の道具をみた。現時点では買えないかわいいティーポットや菜箸をみたあとに、ニトリに行った。ニトリで時計と水切り棚とおたまと1リットルのタッパー、スーパーでさつまいもと塩を買って帰った。

 家を出る前に栗ごはんを仕込んでおいたのが炊けていた。温野菜が食べたかったので、かぼちゃとさつまいもを買ってきたタッパーに入れて電子レンジにかける。それから玉ねぎのみそ汁をつくって、鶏肉を少し焼いた。いい具合に盛り付けてテーブルに全部並べるとそれがいい景色でだいぶ満足した。食べてもおいしかった。

 あたらしい部屋は建物自体は古いのだが、とある理由でわりとあらゆるところが新品になっている。キッチンもガスコンロも浴槽も新品で、ほんとうにきれい。わたしは現時点では毎回使用後に拭きあげている。あんまりにもきれいなので極力きれいなまま使いたいのだ。掃除は毎日やったほうがきれいも保ちやすいはずである。。。

駆動するコア

 意識的に美術に近づいて13年が経った。中学2年の頃から高校は美術系に行こうと思って画塾にいっていたし高校は美術科に進んだ。浪人して少しだけ予備校に行っていた時期もあったし、大学は5年いた。院には進まなかったけれど、短期講座とはいえ自分でお金を払って美学校に通い、また展示をする。

 幼い頃から習い事や色々なものが続かなくて、両親からは「やればできるのにやらない」とか言われていたけど、わたしはわたしで 自分に向いていない とか 苦手だな と感じたものから逃げる能力が高いので能力や技能の形成はあんまり整っていない。努力とかも得意ではなかった。絵は結局5年やったけど描けない。

 自分は制作があんまり向いてないんだろうな と思いながらもなんだかんだ13年美術といる。これは、わたしの中では快挙だ。無数にやめてきたものがある。バレエ、ピアノ、バイオリン、進研ゼミ…。制作でも、これは向いてないなと思ってやめた手法や、おもしろいと思って考えていたことも時間が経って興味が移ろい考えなくなったこともたくさんある。大学を卒業して美学校に行く間の1年半なんかは、「もう二度と作品を作れないかもしれないな」と思いながらも、それでも面白い展示を見に出かけていた。作っても、作らなくても、なんとなくずっと美術と一緒にいる。これはもう一生変わらないのだろうと思う。

 美術を通して、わたしはさまざまな人や場所や思想、学問にアクセスできる。一見つながりのない出来事も、つなぎあわせて捉えたり、興味を持って考えることができる。哲学や思想、批評の文章を読むようになったのも美術がきっかけだったし、面白がるポイントは年々変化していっているが本を読み続けている。何かをずっと制作できているわけではないけれど、この興味を駆動するコアの部分をずっと保持できていて、わたしはとてもうれしい。

 

1月1日に

 今日はどんな日だったか。2019年の12月31日から2020年の1月1日までなめらかに繋がれてきた。年越しは不思議だ。数字がどういう仕組みで1/1になったのかわからないけど、きょうはとにかく1月1日だった。31日は友達が住んでいるタワマンに遊びに行ったら屋上に連れて行かれたり(屋上は寒かった、タワマン探訪したことなかったのでタワマン欲が満たされた、住みたいかはわからない、有事の際逃げるのが大変そう)下北沢で木製の椅子に5時間座っていた。今朝はわたしは6時すぎに家についた。そして眠った。15時すぎに起きた。灯油ストーブの給油をし、簡単にお雑煮をつくり、おせちをつまんだ。自分だけでも立派にお正月をやれている。

 実家には12月27日から30日まで帰っていた。久しぶりに親に会うと、親が歳をとっていっているのがよくわかる。父親は昔から読解能力に長けた人ではなかったけれど、クール便で届いたおせちの説明書が読めなくて(ちゃんと読めばよめるのだが)説明書のせいして母親と喧嘩しているのとかをみると、ゆるやかに極まってきたな、と思う。それから外を母親と歩いていた時に、急に母親の体勢が狂い始めそのまま綺麗に身体が大地に接着した。後ろから見ていたわたしはびっくりしすぎて、ただデカい声をあげた。父親は車の中からわたしたちを見ていた。母親は捻挫で三週間ギプスをつけることになった。

 母親は前にもわたしが帰った時、怪我している。わたしが母親と同じ部屋で寝ていたとき、ベッドから降りようとした母親は寝返りを打ったわたしを踏まないようにした結果右足の小指を骨折した。実家には18年住んでいたはずだけど、もうあまり思い出せない。帰ってもわたしが留まれるだけの場所はない。三人それぞれに各自のペースがあるので無理に同期しようとすると怪我をしたり喧嘩したりする。

 大学3回生くらいから徐々に人間っぽくなってきたように思う。わたしはいま5歳だ。

 

最近泣いたこと

クォンタム・ファミリーズを読んでいる、まだ全然序盤だけれども既に泣いている*1
知世とさくら*2について書かれたエッセイ
“あなたを覚えておくことだけがわたしの幸せなのだから”
の一節を繰り返し思い返して泣いたりしてしまう

わたしがいて数多の分岐点を抜けた先にいまのわたしがいるという捉え方をしているので 時折わたしがいまのわたしまでたどり着いて生きられていることに泣くことがある
同時に平行世界のわたしに思いを馳せる
あれをやっていなかったら?あそこに行かなかったら?
しなかったことの蓄積がわたしを形づくる

ラジオでのo (__*)がとても良くて、繰り返し聴いている 以前ツイッターで誰かが「怒った神様みたいだった」と言っていたがほんとうによくわかる表現だ
獣のような声を出されると 耳から全身がいともたやすくのまれていく
これも泣きました

*1:汐子という登場人物名でかなりくる、何故なら作者の東浩紀の娘の名前は汐音さんだから

*2:カードキャプターさくら